祖母の思い出

このページでは、服部正己の長女である私の祖母の思い出話を主にご紹介します。

昭和14年 祖母生後6か月のころ    

 父は、1932年の春東京帝国大学の仲間と同人雑誌を立ち上げた。コギト第一号が昭和7年に肥下 恒夫、保田  與重郎、若山 隆、薄井 敏夫、三崎 皎、田中 克己等と、編集された。その編集される前に、父は保田 與重郎からドイツに行ってこいといういわれ、肥下 恒夫(当時彼は大地主の息子)から洋行代を借りて渡航した(ちなみに、父が借金を返却した事実はない)。ちょうど父がドイツについたころ、映画「会議は踊る」が流行っていた。そこで一か月後に、あるドイツ女性に巡り合った(名前は確かシグリンダだと思う。)そして恋をした。その二人が写っている写真が父の洋書の一冊の中に隠してあった。それを母が見つけて、破り捨てた。父は身長166cmでシグリンダは身長175cmくらい。この機会から父はなぜか、骨太で大柄な女性が好きになった。

 

 父はドイツに着いてすぐにオーバーコートを買っていた。そのコートを着たシグリンダとの写真を大切にしていた。しかし、その写真が後日母に見つかり、破り捨てられた。ドイツ滞在期間は3か月だった。その短い期間にドイツ女性と親しくなった父の積極性に今は感心している。

 

 話は変わって昭和11年から12年ごろ、母が徳島高等女学校(後輩に瀬戸内寂聴がいた)を卒業したころ、父の母親(服部こまん)が和裁教室の校長をやっていて、そこに母が和裁を習いに行っていた。ある夏の日に、東京から実家にもどってきた父は奥の部屋で頭にハチマキを巻きつけて、真剣な顔で勉学にいそしんでいた。その姿を母親が眺め、心惹かれた。そして、頻繁にその和裁教室に通い、米屋の娘であった母は、こまめにおにぎりやお弁当を作って、父に渡していた。目の大きい愛らしい母の気持ちに父が心を動かされ、昭和12年末ごろ結婚した。ちなみに母はドイツ女性と異なってきゃしゃで、骨太ではなかった。

 

 結婚後、昭和13年ごろ大阪天王寺に夫婦で引っ越した。無職で親の仕送りと、母の喫茶店でのアルバイトで生計を立てていた。幸いなことに、昭和15年4月に天理外国語学校教授となった。

 戦後、昭和20年わたしが6歳の時、天理の新しいコンクリートのアパートに二部屋借りて住むようになった。食べ物がない時代であった。母は結婚する前には裕福な米屋の娘であったので高価な貴金属、指輪やネックレス、着物を保存していた。その装飾品を農家に持って行って米に変えたり、ジャガイモに変えたり、着物を差し出して麦と小麦粉に変えたりした。おかげで一家はそんなにみじめな食事をした思い出はない。そのころ、コギトの仲間である田中克己氏が我が家へやってきて夕食を食べ、将棋を指し、お風呂に入り、そして一泊して帰ることが頻繁にあった。自由奔放で独特なオーラをもつ人という印象をうけた。しかし、最近になって田中克己氏の長女から当時の話をお聞きした。父はあまり家庭を顧みず、子供たちはひもじい思いをして父を待っていたという。詩人というのは、そういう個性が必要なのかもしれない。

 

 わたしが中学生のころ、父はやたらとドイツの歌を無理やり歌わせ、ドイツの国歌や会議は踊る、野バラなどを母、妹を畳に座らせ無理やり歌わされた。今もわたしはドイツ語でその3曲を歌っている。

父にはニベルンク族の厄難を戦前に訳したのを、よりきれいで新しい装丁の本を作り直したいという夢があった。しかし夢がかなわなず52才で亡くなった。そこで、母(服部サノ子)が昭和50年ごろから東洋出版社に依頼し、新しい装丁のニーベルンゲンの歌として出版した。この「ニーベルンゲンの歌」は現在は日本各地の図書館に在庫している。

 

 昭和19年に父が初版を出したニベルングの厄難は当時日本で最初の訳本であった。